長与専斎の功績

医学科専門の授業ではありませんが月曜日に、明治時代の文化と社会という授業の中で、明治時代における健康の変化について学びました。江戸時代は養生の時代で、明治時代は衛生の時代だということを学びました。

養生の時代には、貝原益軒が養生訓で「健康で長生きしてこそ、人としての楽しみを味わうことができる。養生の術を知らなければ多病に苦しみ、元気がなくなり、早く死んでしまう」といったことを書いてありました(訳が少し間違っている可能性がありますので、少し疑ってください)。ここで言う養生の術とは、呼吸法、マッ サージ、食生活 の改善、性生活の節制など、個人の主体的な努力を意味しているように思えます。

これは現代でも通用するところがあると思います。この時代では、個人自らがこれらを実践出来なくて病気になったとしたら、これらを怠ったその人が悪いといった考えのように受け取れます。

一方、衛生の時代は国家が国民の健康を守るという考えが取り入れられています。私が思うに、日本において、衛生の時代が始まったのは、長与専斎という人物のおかげだと思います。

その長与専斎は、明治時代初期に西欧を視察しました。彼がベルリンに居るとき、彼は、ゲズントハイツプレーゲという言葉をよく耳にしたそうです。その言葉を調べているうちに、それが国民一般の健康保護を担当する行政組織を意味することを発見しました。 そして、「ゲズントハイツプレーゲ」を衛生と翻訳しました。その後、1873年に文部省医務局長に就任し、1874年に、医師は西洋医学を学び、医師免許を取得しなければならないなど、近代医療の基本的な枠踏みを構築しました。

明治初期の当時は、西欧の文化をどんどん取り入れていった時代であり、医学も例外ではないと思います。もし、治療法などだけを学んでいたとしたら、個人の努力で健康を守るという時代は長引き、現在の国民皆保険制度が導入される時期が遅れていたのかもしれません。

国民皆保険制度は皆でお金を出し合って、病気やけがの場合に皆が安心して医療が受けられることを目的にしたものと思われます。この考えは長与専斎が発見した「衛生」という考えそのものだと思います。ですので、長与専斎が明治時代の初期に「ゲズントハイツプレーゲ」という言葉の良く調べ、「国家が国民の健康を守る」という結論を出したからこそ、皆が安心して医療を受けられる時代になったのだと思います。実際には高度な医療を受けられないことがあるとは聞きますけど。